uporeke's diary

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和歌は文法とかすっ飛ばして共感するのが大切

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苔を見るようになってから自然全体にも目を向けるようになりました。木や草花の名前を気にするようになると、どの季節にどんな話が咲くのか調べたりもします。冬は花なんて咲かないかと思ったら梅があるし、今の時期は蝋梅もほのかに甘い香りを漂わせています。そういう自然をそのままとらえた文学って最近はあんまりなさそうだし、長い小説で自然を描写されてもちょっと退屈かもしれません。そんなことを考えながら前から気になっていた塚本邦雄が和歌に関する批評をする本『秀吟百趣』『王朝百首』などを手にとって、「あ、和歌は自然を文学にしているわ」と気づきました。国文科出身なのに、いまさら。

秀吟百趣 (講談社文芸文庫)

秀吟百趣 (講談社文芸文庫)

 

塚本邦雄が「秀歌」とするのは、自然の描写と人間の心理が融合する和歌です。よく万葉集は素朴、古今和歌集は「たをやめぶり」にして歌集の最高峰、そして新古今和歌集本歌取りなどの技巧や「余情妖艶の体」などの描写に特徴があるとされます。しかし、学生時代にそんなことを習っても男女の仲なんてまだよく分かっていないぼんくらには、ただの記号でしかありませんでした。今だって進研ゼミの「万葉集と古今和歌集,新古今和歌集の違い」を読んでもさっぱりわかりませんし、つまらない。歌集のちがいなんて国のちがいと同じようなもので、収められている歌は国の中の人のようなものです。全体として傾向はあるかもしれないけど、一つ一つはみんなちがう。それをまとめて学ぼうとすると大層退屈だし誤解だってたくさん生まれます。どんな歌集の中にも自分に響く歌と響かない歌がある。音楽のアルバムだって同じように。

Wikipediaによると新古今和歌集があまり取り上げられないのはアララギ派筆頭正岡子規がけなしたせいだといいます。それを北原白秋が取りなそうとしたのだけど顧みられなかったのは、二人の信用の度合いがちがったのでしょうか。個人的には万葉集はバッハ、古今和歌集モーツァルト新古今和歌集ベートーヴェンかと思います、と言い切りたいのだけど万葉集はバッハほど整ってないのでバロックというくらいのおおまかさでしょうか。古今和歌集は歌の数1111、独特の平坦さとキャッチーさがモーツァルトぽいなあと思います。キャッチーすぎて「これ前にも読んだ?」という不安を覚えるほど。

The New Complete Edition: Mozart 225 (German Version)

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 古文の先生に怒られそうですが、和歌を読むときに文法や訳にこだわりすぎるのはイメージを妨げるような気がします。日本語をある程度こなす人なら古文の意味もそれなりに分かるでしょう。もちろん、現代語と古語で同じ音でも意味が異なる語句もありますから、そういうのは区別しないといけない。そういうのは1冊くらいちゃんとした参考書を読めばなんとかなるはず。

古文の読解 (ちくま学芸文庫)

古文の読解 (ちくま学芸文庫)

 

いま一番おもしろいのは藤原定家が選んだ百人一首を「これはいまいちな歌が多いから選びなおします」とマイ百人一首を選ぶ人。手元にあるのは塚本邦雄『新撰 小倉百人一首』や丸谷才一『新々百人一首』ですが、最初に影響を受けたせいもあり塚本邦雄の選歌眼には驚かされ学ぶところばかり。埋もれていた歌がいかにすばらしいかを語る一方、文末では既存の百人一首を徹底的にけなす。ちょっとむきになるくらいが愛情が伝わってきます。このくらい対象について愛を持って語れる人に、死ぬまでにはなれるかしら。

新撰 小倉百人一首 (講談社文芸文庫)

新撰 小倉百人一首 (講談社文芸文庫)