uporeke's diary

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塚本邦雄『王朝百首』は橋本治先生が言うとおり「国民必読の書」

新年あけましておめでとうございます。今年から本の感想は字数を気にしないはてなBlogに書くことにしました。140文字や255文字に囚われてしまうと、書くべきことを書き損じてしまう気がしています。文字数の限定はおおむね簡潔さという美徳を持ちますが、一方で長く書くべき文章を乱雑に切り落としてしまうこともあるのではないでしょうか。

 

2017年最初の一冊は塚本邦雄『王朝百首』です。

 

 

王朝百首 (講談社文芸文庫)

王朝百首 (講談社文芸文庫)

 

 昨年の春になにげなく手に取った本書は、夏秋冬と季節の移り変わりに従って開くたびに新しい視点をもたらしてくれました。よく日本は四季があるから美しいと言われますが、先日読んだデービッド・アトキンソン氏によると、四季のうつろいは別に日本に限った話ではなく、ヴィヴァルディ「四季」を初めとして季節を題材にした芸術作品は数え切れないほどあるとのこと。

 

しかし、和歌のように短い文章に季節を毎回読み込み数限りない作品をもつのは日本だけかもしれないと思います。四季を読み込んだ文学は日本だけではありませんが、たとえば古今和歌集は全部で1111首あり、そのうちの約半分が季節を題材にしています。その伝統は今でも続いていて、短歌には必ず季語が必要。人は多様な視点で季節を言語化できるということを最も早期に成し遂げたのが万葉集から始まる和歌の文化なのかもしれません。

 

ということに気づくことができたのは、苔を見に自然の中に入り、四季それぞれの山の風景を間近で見ることができたから。それまでは国文学科卒にも関わらず、ただでさえわからない古語を31音に凝縮したことでますます理解できないと読まず嫌いになっていました。それを瓦解させたのが本書。解説の橋本治先生は、

まず「目次」を見て、私はボーッとなった。体がわなわなと震え出すような気がした。そこにはただ「美しいもの」が並んでいたからである。 

本書の特徴はなんといっても「王朝」の和歌から選ばれていることで、新古今和歌集の時代を中心に編纂されている。従って、古今和歌集の一種モーツァルトのような明解闊達さよりも、歎きや「屈曲せざるをえないもの」(後書きより)に重心が置かれた歌が選ばれています。退廃という人工の末路でありながら、自然と人というどうしようもなく生きている存在を歌にした王朝末期という時代は常に哀しみをまとった良歌が生まれた時代だったのです。

 

著者は六歌仙に従来とは異なる人物をあてはめました。在原業平紀貫之藤原定家・源良経・源実朝、そして式子内親王です。「解説は蛇足」と著者は言いますが、わたしのように不案内な人間には旧字体で記される独自の美意識溢れる解説が、本体の和歌を彩って煌びやかな世界を編み出しているように見えます。

 

紀貫之からは

さくらばな散りぬる風のなごりには水無き空に波ぞたちける

を選んでいます。今でこそCGで空に波が立つ描写というのは見かけることがありますが、著者が生きた1000年前に風と桜と空の取り合わせから「波」を導く力強さはただ感服するばかり。それを聞いた人々を「空に波がたつのか」と震撼させたことでしょう。

 

解説の橋本治先生は21番目「暮れてゆく春のみなとは知らねども霞におつる宇治の柴舟」(寂蓮法師)と22番目「あすよりは志賀の花園まれにだに誰かは訪はむ春のふるさと」(藤原良経)をダブルショックと称して春の豊穣な美しさに打ちのめされるとしています。わたしはやはり冒頭の2首

月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして(在原業平

盃に春のなみだをそそぎける昔に似たる旅のまとゐに(式子内親王

 ここで本書の全体に満ちた悲哀、取り戻せない理想の儚さが象徴されているように思います。

 

筆者の(時にかなりアバンギャルドな)解釈に加え、類歌も多数収録し、名歌から連想させる世界を補います。帯の「国民必読の書」は伊達ではありません。今年最初の読了にして、いわゆるオールタイムベストに加わる一冊を見つけ出すことができ、2017年さい先の良い読書となりました。講談社文芸文庫からは同様に塚本邦雄が解説している和歌集が数冊出ています。今年はこれらを読んでいるだけで年が越せそう。 

新撰 小倉百人一首 (講談社文芸文庫)

新撰 小倉百人一首 (講談社文芸文庫)

 

 

 

珠玉百歌仙 (講談社文芸文庫)

珠玉百歌仙 (講談社文芸文庫)