uporeke's diary

苔を見ています http://www.uporeke.com/book/

神島裕子『正義とは何か』(1)

Wordpressで書いていたサイトでAmazonのリンクが通らなくなってしまった。APIの設定をしくじったのだと思うのですが、それが回復するまでこちらで書きます。

 

書くことは

  • コケやキノコの観察
  • 海外文学ほか読んだ本について

です。

 

最近読んだのは『正義とは何か』 

正義というか社会的に公正であるとは何かを、最近の政治状況を見て考えるようになりました。議事録を廃棄してしまったり、公務員が権利を越えて一般人の行動を制限したり、そもそも立法は何のために行われているのかを改めて考えてみたいと思ったのです。

有名な哲学書『ニコマコス倫理学』などは自分にはちょっと荷が重い。もちろん読んで害になるということはないのだけど、本気で勉強するには仕事やあつ森で時間がとれない。いまの研究者はどんなことを考えているのかを知るために、新書を中心に哲学や法学について関心を持っています。

 

本書の帯にも「公正な社会派可能なのか」とあります。序章ではソクラテスが正しいことを主張したにもかかわらず処刑されたことに触れて、

民主主義に全幅の信頼をおくことができないことをもってすれば、哲学者の責任は重大です。ソクラテスが憂慮したような、単なる「多数者の理念」の流布が甚だしい現況や、なにより<正しさ>に関する合意が難しくなっている事態を踏まえるならば、社会に生きる哲学者への期待は高まります。(p.17)

未読ですが、みすず書房から出た『専門知は、もういらないのか』という本にも共通しそうな、研究者の成果が社会に反映されていない危惧も感じられます。今年のCOVID-19でも専門家会議が国会が終わるなり解散させられてしまったことも、専門知が蔑ろにされているように見えました。個人的には法律や科学を基礎にした態度がとれない人は政治家としての資格がないと考えています。

 

第一章はリベラリズム。今ひとつカタカナで書かれると分かりにくいのですが、個人の権利を重視する立場と解釈しています。それをさらに推し進めたのがリバタリアニズムで、「社会や国家が個人の生活に干渉することを厭」う。一方、共同体は個人の自由より優先されるとするのがコミュニタリアニズム

第一章ではロールズ『正義論』とそれが与えた影響について歴史を学びます。『正義論』が発行された1960年代は、アメリカで黒人の人権活動が活発になった背景もあり、「社会全体の福祉の増大よりも、個人の自由と権利が一定の優先権を持ちます。(p.32)」そこからヒッピーなどの自由を求める文化が生まれたのでしょう。

自由が生まれるとそこには生まれ持った財や能力によって格差もできます。リベラリズムは格差を完全になくすのではなく、社会のために活用することを重視しています。

トップレベルのプロ野球選手と市井の人びとのあいだには、相当な所得格差がありますが、その格差が巡り巡って最も不遇な人びとのためになるならば、その格差は認められるのです。(p.37)

これを読んでまず思い出したのはトリクルダウンのことでした。アメリカのプロスポーツ選手はよく子どもたちと練習したり寄付をしたり難病の子を取り上げたりするのを見ます。でも、それは義務ではないからやらなくても誰も責めないとなると、それに頼るのは危険なように思います。アベノミクスでも散々うたわれていましたが、結局うまくいったようには見えません。

そもそもなんで正義という公正な社会について考えているかというと、一つはわたしたち「氷河期世代」は新卒カードを使える人が少ない上に派遣業の緩和で正規社員が少なかったこと、加えて結婚適齢期を終えようとする現在でもろくな補償がないこと(この期に及んで雀の涙くらいの助成金を出されても、失われた年月は帰ってきません)。そのことについてわたしはずっと諦めてきたのですが、どうもわたしたちの世代が損して終わる話ではなく、いつまでたっても中小企業・派遣/契約社員の人たちはギリギリで生きていかねばならない状況が続いているのがおかしいと思ったからです。

もうちょっと楽して生きていける社会になるくらい技術は発達してるはずなのに、運用する人間がちっとも新しくならないのでは意味がない。楽して生きていけるようにするにはどうしたらいいのかを考えるために、哲学を読んでいきたいなと思うのです。

桜とライオン

近所に小学校と中学校があり、通学路にたくさんの桜が植えられています。その桜が一本切られることになりました。理由は「大型トラックとぶつかって、枝が折れたから」。桜が植えてあるのは普通車もぎりぎり通れるくらいの細い道で、人がすれ違う時は桜の影に隠れないといけません。そんな道に大型トラックが入ってくること自体に無理があるのに、ただいただけの桜が切られるというのは釈然としません。本来なら大型車側を制限するべきでは?

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一方、ライオンが飼育員を噛んだというニュースがありました。

www3.nhk.or.jp

人間がルールに従っていたのかどうかは発表されていませんが、本来は動物と人間が同じ空間にいないようにしていたはずなのに、そのルールを守られていなかったように見えます。仮にそうだとして、人間がルールを守らなかったのにライオンが傷つけたということで、このライオンは処分されてしまうのでしょうか?

桜もライオンも人間の都合でそこにいるはずなのに、人間側の過失で被害を与えると人間ではなく桜やライオンが処分されるというのはフェアでないように思います。自然界だとその線引きは明確にできませんが、都心や人工施設の場合は人間の都合が大きくはたらいているはずなので、その咎を自然にかさないでほしいものです。

はかなさをほかにもいはじさくらばな 咲きては散りぬあはれ世の中 藤原實定

追い求める男

今週はレコードを50枚ほど処分することにしました。自分で買ったものが思いのほか多く、レコードプレイヤーが壊れてから10年以上聞かずに放っておいたもの。学生時分に東京に出てきた時にはすでにCDが主流でMDプレイヤーが流行りだした頃でしたが、まだわずかばかりレコード屋がありました。住んでいた町にも駅前に小さなレコード屋があり、バイト代が入るとつい透明な扉を開けて30分くらいはレコードやCDを漁ったものです。

 

#143 旗の台「鳥樹」

#143 旗の台「鳥樹」

 

 ※むかし、上記でバイトしてました……。

 

今でいうところの「ぼっち」であったわたしは、Jazzとの出会いも基本的には書籍で紹介されているもの。当時は寺島靖国さんの本をよく読みました。マニアックで偏りのある物言いが今も昔も大好きで、何せ家にオーディオ専用の電柱を立てた先駆者ですから偏り具合は相当なもの。とはいえ歌心のある選曲でしたし、探しても見つからないようなレア盤ばかりでもないので、Modern Jazz QuartetやKenny Dorhamなどを知ることができたのは、今のささやかな趣味につながっています。

 

Quiet Kenny (Reis)

Quiet Kenny (Reis)

 

 

それまでメタル音楽ばかりを聴いて疲れた耳にJazzはたいそう心地よく、この心地よさをもっと求めたいという気持ちが民族音楽アンビエント系、プログレッシブロックにつながったのはさておき。それでもJazzというジャンルを聴くのならば無視できない人がいました。Charlie Parkerです。今とちがって明確なコンセプトにもとづくアルバムがほとんどなく、選集といった感じのアルバムばかりでした。2分程度の曲がほとんどで、すごく吹きまくっているけど、好きかどうかと問われると……誰も問う人がいなくてよかった。当時公開された映画も見ましたが、それで好きにつながるわけでもなく。今でも音楽というよりは、猛々しい一陣の風という印象のままです。

 

ナウズ・ザ・タイム+1

ナウズ・ザ・タイム+1

 

 

Charlie Parkerを聴いてから10年もたたないうちにラテンアメリカ文学にはまり、そのきっかけはコルタサル『悪魔の涎』文庫本でした。ここにはコルタサル畢竟の一作「追い求める男」が収録されています。これも読んだ当初は他の作品とのギャップが大きく、Charlie Parkerが題材と聞いてさもありなんと思ったものです。技巧よりも感情のうねりのようなものが直接ぶつけられるような気がして、読んでいて心地よさがない。それでもなぜか目は文章を追いかけてしまうのです。こういう好きではないのに読まずにいられない、聴かずにいられないものばかりをいつの間にか自分が追い求めるようになっていました。この先もずっと手に入らないもの(おおむね美しいもの)を追いかけるだけの生活なのだろうと思います。

 

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

 

 

田中美穂『わたしの小さな古本屋』

 

わたしの小さな古本屋 (ちくま文庫)

わたしの小さな古本屋 (ちくま文庫)

 

 

本に関する本というのが苦手です。話題になった講談社学術文庫『本を読む本』もさっぱり理解できず、まして古本屋さんが書いた本というのはToo muchな印象が読む前から感じられます。本の中身について話すのは好きなのですが、わたしは本自体をあまり愛していないのかもしれません。1000冊近くあった本も200冊くらいにまで減らしてしまいましたし。先日訪れた書店Titleでは豆本が展示されていてワークショップの案内もありましたが、自分で本を作るというのが考えられず、何かについての本を作りたいという欲求がないことにも気づかされました。なのに編集者を志望していたというのは、甚だしく己の分というのをわかっていなかったのだと思います。今でも自分の分なんてわかっていませんが。

二十歳そこそこで古本屋をはじめ、郵便局のアルバイトなどを掛け持ちしつつ、親族の死を転機に古本一本に絞って細々ながらも確実に続いているのは地道な努力の結果なのでしょう。人は複数のことに手を出すとなかなかうまくいかないようで、退路を断って一つのことに集中すると道が開けるというのはある種の真理なのかもしれません。生き方は不器用に見えますが、手先の器用さや独特の審美眼を活かして、書店内ライブや苔グッズの販売などただの古本屋には収まらない。また、何より周囲の人がいい。周囲の人がいいというのは本人がよくなければ決して集まってくれないものです。人に「おもしろい」と思われるからこそ、同業者のみならずミュージシャンや学者などが訪れるお店に育ったのでしょう。

苔の先達というつもりで読み始めましたが、古本屋ならではの(かなり独自ですが)苦労や楽しみ、「おばあさん」のような日常が描かれており、ほっと安心できるお店なのだろうと文章からも伝わってきます。個人的に岡山は未上陸の地なので、近いうちに苔観察に絡めて訪れてみたい場所です。

リニアモーターカーはわたしたちの税金を蝕むことまちがいなし 『リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」』を読んだ

 

リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」 (集英社新書)

リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」 (集英社新書)

 

 

子どものころ、リニアモーターカーは夢の乗り物でした。新幹線より静かで早くて安全。そう教わってから大人になって忘れた頃にリニアモーターカーが復活するという話になったのが2007年。税金は投入せずJR東海単独で作るということで民主党政権時代に認可が下りたにも関わらず、結局は政府の財政投融資を利用することになりました(「リニアのJR負担、5千億円減 国交省試算、財投活用で」)。2017年1月現在、すでにトンネルを掘り始めています(「県道の四徳渡トンネルで掘削作業開始」)。個人的には大規模な自然破壊につながるリニアモーターカー建設には反対です。しかし、単に自然破壊だけが問題なのでしょうか? これから賛成派・反対派両方の本を数冊通して読むことで、リニアモーターカーが環境・経済・安全などの面でどんな問題を抱えているのか調べていこうと思います。そもそも、JR東海のサイト自体にリニアモーターカー建設について説明する気持ちが少しも感じられず、何か後ろめたいことがあるのかと勘ぐってしまいます。

1冊目は橋山禮治郎『リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」』で、この方はリニアモーターカー建築反対派。新幹線でいいじゃないか、というスタンスです。著者は「経済性」「電力消費量」「安全性」の面からリニアモーターカープロジェクトが失敗につながると論じています。数字に裏打ちされた論考で、過去にはドイツも検討した末にやめていると聞くと、早さだけのために9兆円もの巨大プロジェクトを推進するというのは子供じみた世迷い言に思えてしまいます。

「採算がとれない」

JR東海の山田佳臣社長(当時)が「リニアは絶対にペイしない」と断言してしまうくらいに採算の見通しがたっていないらしい。プロジェクトにかかる費用もさることながら、リニアモーターカーという新しい規格は他の路線に転用できない、転用するにはJR東海くらいに余裕がないと難しいわけです。

もちろん人口減の問題もあります。大阪まで開通する2045年くらいには日本の人口が1億人以下になると言われています。単純に国内利用者数が減ると予想されているのに、JR東海や他の自治体は利用者数が増えると仮定して見積もっている。東海道新幹線の利用者がリニアモーターカーに移行するというのが理由らしいですが、だとしたら東海道新幹線の採算はどうなるのか。

本書では川崎と木更津の間を通っているアクアラインが計画の38%しか利用されておらず、1日あたり1億円を超える赤字を出しているそうです(!?)。しかも民間会社が主導で建築したにも関わらず、開通直前になって責任を放棄したことで国が肩代わりしているとか。リニアモーターカーも同じ轍を踏まないようにしてほしいものです。

「電力がすごい」

別に原発を必ずしも建造する必要はないと思うのですが、それでもリニアモーターカーを動かすには原子力発電所3~5基程度の電力が追加で必要になると言われています。東日本大震災でさんざん節電が必要と言われてからたった数年しかたっていないのに……。日本の電力が余っているとでもいうのでしょうか? これについてはJR東海が明確な数字を出していないので、本当にそれだけの電力が必要になるのかはわかりませんが、少なくとも新幹線の3〜5倍の電力を使うことはまちがいなさそうです。

「安全が確保されていない」

本書では電磁波が身体に与える影響について強く懸念されています。個人的には総務省が発表している電波の人体に対する影響に書かれている「熱作用」「刺激作用」以外に証明されていない健康被害について、わたしは不安に感じていません。リニアモーターカーの実験線に乗って体調を崩した人いませんよね? いわゆる左といわれる某党にも言えることですが、科学的な論拠が曖昧なところを攻めるのは得策ではないと思います。

ただ、地震などによるトラブルの際にどのように安全を確保するかということはとても気になります。ほとんどの路線がトンネルになりますが、5~10kmの間隔で地上へ出られる階段がもうけられるそうです。「運転士がいない状態で大きな地震などが起きた場合、操作はどうなるのか?」「トンネル内で立ち往生した場合、どうやって脱出するのか?」などについて懸念事項としてあげられています。トンネルから地上へ出られたとして、山梨や長野の山中に放り出されることになり、乗客はそこからどのように救出されるのかも気になるところです。夏ならまだしも、氷点下の冬に救助が来るまでずっと地上で凍えていなければならないとしたら、事故で死ななくても遭難の憂き目に遭うわけです。

本書では触れられていませんでしたが、2045年に大阪へ開通するまで名古屋より遠くに行く人は新幹線に乗り換えが必要になります。40分で名古屋に行けたとしても新たに新幹線に乗り換えなければならず、2つのきっぷを予約しなければならないなら、東京や品川から新幹線「のぞみ」に乗り続ける方がトータルでは早いかもしれません。ちょっとめんどくさい。

調べれば調べるほど赤字や危険しか予感できないリニアモーターカー。今のところ賛成派からは(根拠の薄い)地域振興くらいしかメリットを感じられないので、早く納得できる意見をききたいものです。

収納はひらめき。元の用途とちがう無印良品小物2アイテムの意外な近い道

無印良品のアイテムで最近気になったものがありいくつか購入しました。

一つ目は「アクリル小分けケース5段」女性用小物の場所に売っているので普段は見かけないのですが、ぼんやり歩いていたら変な形だったので手に取ってみました。高さ2cm×半径1.5cm程度の円筒が5つねじになって重なっています。こんな小さい容器に入れるもの……、苔! 折しも千葉県立博物館の顕微鏡勉強会でいただいた苔があり、紙に包んだまま保存しておくのもちょっと邪魔と思っていたところでした。ツノゴケのように長い蒴があるとはみ出してしまいますが、顕微鏡で観察するくらいの分量だとちょうど収まります。200円ちょっととお値段も魅力。観察に行くときにサンプルを収納するのにも使えそうと思ったけど、メモれないのが弱点。付箋を工夫すればなんとかなるか?

www.muji.net

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もう一つは本に関するアイテム。普段「ポスト・イット 見出し 25x7.5mm」を本の見返しにつけておき、気になるところに貼るようにしています。この付箋がとても小さいため、そのまま鞄のポケットに入れておくとバラバラになってしまうので、鞄に入れるのは躊躇していました。そうすると、忘れた時に付箋が貼れないという悲しいことがたびたびあり、ちょっとしたイライラをため込むことになるのです。そんなときに無印良品の女性用小物の場所にあった「ヘアピンケース」を見つけて考え佇むことしばし……、端から見ると怪しい光景。これに付箋を入れればいいのでは。厚さ長さともちょうどこのポストイットにぴったりで、5〜6セット入ります。鞄のポケットに入れておけば、いざというときにすっと取り出して付箋を補充できる。個人的に5年くらい続いていた悩みが解消してとてもうれしい! 

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ポスト・イット 見出し 25x7.5mm 100枚x混色10個 715RP-K

ポスト・イット 見出し 25x7.5mm 100枚x混色10個 715RP-K

 

 

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掃除や片付けがすごく苦手なので、時にこうやってうまいやり方を見つけられると舞い上がってしまいます。細かいものは散乱しがちなので、ちょっとした収納ケースが役に立つことに気づけたのはいいのですが、今度は収納ケースが散乱することになりそう……。

和歌は文法とかすっ飛ばして共感するのが大切

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苔を見るようになってから自然全体にも目を向けるようになりました。木や草花の名前を気にするようになると、どの季節にどんな話が咲くのか調べたりもします。冬は花なんて咲かないかと思ったら梅があるし、今の時期は蝋梅もほのかに甘い香りを漂わせています。そういう自然をそのままとらえた文学って最近はあんまりなさそうだし、長い小説で自然を描写されてもちょっと退屈かもしれません。そんなことを考えながら前から気になっていた塚本邦雄が和歌に関する批評をする本『秀吟百趣』『王朝百首』などを手にとって、「あ、和歌は自然を文学にしているわ」と気づきました。国文科出身なのに、いまさら。

秀吟百趣 (講談社文芸文庫)

秀吟百趣 (講談社文芸文庫)

 

塚本邦雄が「秀歌」とするのは、自然の描写と人間の心理が融合する和歌です。よく万葉集は素朴、古今和歌集は「たをやめぶり」にして歌集の最高峰、そして新古今和歌集本歌取りなどの技巧や「余情妖艶の体」などの描写に特徴があるとされます。しかし、学生時代にそんなことを習っても男女の仲なんてまだよく分かっていないぼんくらには、ただの記号でしかありませんでした。今だって進研ゼミの「万葉集と古今和歌集,新古今和歌集の違い」を読んでもさっぱりわかりませんし、つまらない。歌集のちがいなんて国のちがいと同じようなもので、収められている歌は国の中の人のようなものです。全体として傾向はあるかもしれないけど、一つ一つはみんなちがう。それをまとめて学ぼうとすると大層退屈だし誤解だってたくさん生まれます。どんな歌集の中にも自分に響く歌と響かない歌がある。音楽のアルバムだって同じように。

Wikipediaによると新古今和歌集があまり取り上げられないのはアララギ派筆頭正岡子規がけなしたせいだといいます。それを北原白秋が取りなそうとしたのだけど顧みられなかったのは、二人の信用の度合いがちがったのでしょうか。個人的には万葉集はバッハ、古今和歌集モーツァルト新古今和歌集ベートーヴェンかと思います、と言い切りたいのだけど万葉集はバッハほど整ってないのでバロックというくらいのおおまかさでしょうか。古今和歌集は歌の数1111、独特の平坦さとキャッチーさがモーツァルトぽいなあと思います。キャッチーすぎて「これ前にも読んだ?」という不安を覚えるほど。

The New Complete Edition: Mozart 225 (German Version)

The New Complete Edition: Mozart 225 (German Version)

 

 古文の先生に怒られそうですが、和歌を読むときに文法や訳にこだわりすぎるのはイメージを妨げるような気がします。日本語をある程度こなす人なら古文の意味もそれなりに分かるでしょう。もちろん、現代語と古語で同じ音でも意味が異なる語句もありますから、そういうのは区別しないといけない。そういうのは1冊くらいちゃんとした参考書を読めばなんとかなるはず。

古文の読解 (ちくま学芸文庫)

古文の読解 (ちくま学芸文庫)

 

いま一番おもしろいのは藤原定家が選んだ百人一首を「これはいまいちな歌が多いから選びなおします」とマイ百人一首を選ぶ人。手元にあるのは塚本邦雄『新撰 小倉百人一首』や丸谷才一『新々百人一首』ですが、最初に影響を受けたせいもあり塚本邦雄の選歌眼には驚かされ学ぶところばかり。埋もれていた歌がいかにすばらしいかを語る一方、文末では既存の百人一首を徹底的にけなす。ちょっとむきになるくらいが愛情が伝わってきます。このくらい対象について愛を持って語れる人に、死ぬまでにはなれるかしら。

新撰 小倉百人一首 (講談社文芸文庫)

新撰 小倉百人一首 (講談社文芸文庫)