uporeke's diary

苔を見ています http://www.uporeke.com/book/

マリオ・バルガス・リョサ『楽園への道』(河出書房新社)

楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)

楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)

ラテンアメリカ文学の雄にして1990年にアルベルト・フジモリと大統領選を争ったことでも有名なペルーの文豪マリオ・バルガス・リョサの、 2003年の新刊がとうとう出ました。リョサの代表作『緑の家』を読んでからというもの、どうも混沌として読みにくい小説を書く人、というイメージが固定していたのですが、2004年に翻訳された『フリアとシナリオライター』を読んでからその印象は一変しました。かちりと音がしそうなほどエピソード同士がきっちりと構築されており、何よりもストーリーテリングが爽快で子供の頃の読書のように我を忘れてのめりこめる。比較対象がややおかしいかもしれないが、ただでさえろくに出なかった授業をさぼりにさぼって『十二国記』を片っ端から読みまくったときのような、魂を小説にもっていかれる経験をしてしまいました。

『楽園への道』はタヒチに楽園を探しに行ったポール・ゴーギャンと、その祖母にして世界に楽園をもたらそうとしたフローラ・トリスタンの人生を物語る。フローラは破天荒な人生に加えて早くに亡くなったこともあり、孫の顔を見ないままだった。しかし、一世代挟んだ二人の人生がかくも異なり、すべての労働者の楽園を夢みたフローラと己の楽園のみを追いかけ続けたゴーギャンの対比がすごい。フローラの物語を読んでいる時は「労働者よ、覚醒せよ!」と共産主義的になってフローラと争っている無知蒙昧な愚民どものところに行って加勢したくなる。しかし次の章ではロリコン・アル中のダメ人間ゴーギャンタヒチでのんべんだらりと暮らしている人生をうらやましく思っている始末。庭でにゃんことにわとりがニャゴコケニャゴコケいってるところで、ぐったり寝そべってアブサンのロックすするのは最高ですよねー。章が変わるごとに自分のスイッチが全体主義個人主義全体主義ところころ変わるので、読みやすさは抜群なのに変なところで疲れるのもおもしろい。

いっしょに暮らさなかったのに、祖母と孫の間にはとても似ているところもあって、それは自分の理想のためなら他人の犠牲を厭わないところ。フローラは自分の正しさを証明するために自分の書いた本だけを頼りにあちこちに出向いて他人を調伏しまくる。金持ちは「うるさいのがやってきた」と鼻であしらい、労働者は「なんだ女かよ」と蔑んだ目で見下す。それでも俯仰不屈の精神で自分の理想を説き続ける姿には涙を禁じ得ない。ゴーギャンの方は一時期証券マンで家庭を持つ理想のヤング・エグゼクティブ(はじめてタイプする言葉なので指がつった)を体現したにもかかわらず、一切合切放り投げて絵の道に進み、それからは誰がなんと言おうと絵ばっかり描いてあまつさえ楽園を追い求めてタヒチに行ったり、はた迷惑なおっさんである。

ラテンアメリカ文学のブームの時代によくあったのが一人称と二人称と三人称を書き分けることで読者の視点を変える効果。レイナルド・アレナス(アリステア・レナルズに似ているのでよく間違える)『めくるめく世界』では章ごとに人称を変えて小説と年代記が混ざったような書き方で人物とともにその場にいる臨場感と神の視点を同時に持てる効果がなされています。リョサも人称によって書き分ける効果には意識的で『緑の家』から取り組んでいたはず。本作ではその書き分けを文中に仕込んで読者に意識させないような工夫がしてあります。メインの文章を三人称にして伝記的なスタイルを作っておいて、ところどころに主人公の一人称の視点と自分への呼びかけを忍ばせています。あの言葉が出てくると主人公の内面にパンするかのように視点がしゅるりとミクロになっていく感じがすごくおもしろい。

できればフローラ・トリスタンもポール・ゴーギャンについても下調べせずに先入観なく読んでいただきたい一冊。「損をしない読書」という言葉はきらいなのですが、この本だけは確かに損をしない。ラテンアメリカ文学の最前線が読めた上に、史上初のフェミニストと世界最高の画家の伝記が読めてしまうのです。しかも文章はめっぽう読みやすく田村さと子氏の訳はまさしくこの本にぴったり。ラテンアメリカ文学を読んだことがない方は混沌としたガルシア=マルケスではなくバルガス・リョサを入口におすすめしているのですが、『フリアとシナリオライター』に続いてまたも入門にして最高の本が訳されたことが本当にうれしい。本棚に揃えて誇らしく思える一冊です。