uporeke's diary

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C・フエンテス『聖域』(国書刊行会)

先日の古書ツアーでどか買いした中の一冊。たぶんあまり流通してないし、わたしも初めて見た。国書刊行会ラテンアメリカ文学叢書シリーズは背があいた状態の箱があり、パラフィン紙でくるまれているのですが、箱側のパラフィン紙に堂々と「聖域 C・フェンテス」とマジックで書かれているのがもの悲しい。しかし状態はとても良く、帯さえついてる。「メキシコの《ヌーヴォー・ロマンシエ》 フエンテスによる 犬に変身する青年」という文句が青い帯にくっきりとした明朝で書かれており、どんな風に変身しちゃうのかわくわくしながらページをめくりました。

メキシコどころか世界を代表する女優クラウディアには青年になろうとする息子「ぼく」がいた。「ぼく」は超マザコンでいつも母親にやりこめられるのが分かっていながらめそめそとどこにでもついていく。しかしイタリアなど海を渡った海外ともなるとそうもいかない。犬をたくさん飼ったり学校に行ったりするものの、一人めそめそと日々を明け暮れる「ぼく」は、主人不在の驕奢な屋敷の中で妄想をふくらませていくのでありました。

と、表面的にはただのマザコン孤独物語ですが、実際の文章にはユリシーズからとられたモチーフがちりばめられているそうで、読んでいないわたしも煌めく言葉の輝きに圧倒されてしまいます。

清潔な天井は、キリコの絵の人気のない広場を思わせる。
セメントの壁と白いモザイクの床。
ペドロ・フリードベルグの家具。受容する手。
この空間に置かれると物体は溶解し、その角は石膏のように白い光、腐蝕性、酸性の消化液のように濃厚なあの光の方へ漂い流れてゆく。自らを形作り、短剣やダイヤモンドに見まがうまで鍛えあげたあまりにも明るいその光は、どのような色彩、形象、ジェスチャーをも引き立たせはしない。すべてを溶かしこむその光は、いとわしい調和を生み出すことも、観念の中ですでに予見され、硬直した意味をもたらすこともない。光と彫像が求めているのは、眺めることだけだ。そこを通して新たな触れ合い、新しい映像、新しい匂、新しい音が侵入してくる。光の一部となった新しい音は、ジョン・レノンの声にのってスピーカーの中で爆発するが、そこにはようやく得られた安らぎにともなうあのもの憂い感じが、あらゆる感覚を激しく浪費したあとの美しい疲労がつきまとっている。

屋敷の1階が印象を変えたことについて「ぼく」は引用の前にも2ページを費やして陶然とする。繊細でひたすら理想のままあり続けることを願う彼の真摯さは、文章で読むと実に美しいが、実際には鬱陶しいものだろうと反射的に考えてしまうのはダメな大人であります。『ドリアン・グレイの肖像』をもっと内向的に、もっとマザコンにして、メキシコの明るい太陽を避けてめそめそと屋敷に閉じこもる青年の内面は、もうすぐ雪が降るのを待ち受ける静かな土曜の昼下がりに読むにはやや暗さが勝ちすぎていたか。ラストのぎゃふんさも見事。作品ごとに文体を書き分けることを目指したフェンテス、今まで読んだ彼の作品ではもっとも繊細で現実的な幻想性に彩られていました。岩波文庫の短編集だけでは評価できず、もっと他の作品を読みたくなる一冊です。