uporeke's diary

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『フラナリー・オコナー短篇集(上)』読書会

第23回読書部『フラナリー・オコナー全短篇(上)』

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

参加者は8人(二次会で+2人)。なお、以下の内容は作品の詳細に触れています。

前に重宝していた某五反田の集会場は閉鎖されてしまったため、新しく某港区の福祉会館を利用。他の利用者はみなお年寄りで、そこここに杖を挟んでおく「つえつえほ〜」http://www.fsj-ms.com/tsuetsue/index.htmlや気分が悪くなった時に押すスイッチなどが目立ち、福祉の名は伊達ではない。

さて、本会の方はというと、個人の読みから脱してカソリック的な読み方があるという新しい発見をした某K氏の意見は、参加者にとっても大きな発見だった。多くの日本人がそうであるように無神論者かつ一般的な日本人の立場で読むと、フラナリー・オコナーの作品は殺伐として不毛さのみが際だつ。しかし、作者が強い信仰心を持っていたカトリックの考え方に照らし合わせると、死や暴力は決して無差別・無慈悲に訪れるのではなく、何らかの意味を持ってくるというもの。

特に最も衝撃的な「善人はなかなかいない」が象徴的だが、家族が次々に森へ連れて行かれる中、はた迷惑なおばあちゃんは<はみ出しもの>との対話である聖性を獲得する瞬間がある。ここはおばあちゃんを聖者、<はみ出しもの>が信者となって告解(懺悔)をしているという見方。また、海外のWikipediaによると、最初に殺されたおばあちゃんの息子(家族の父)が来ていたシャツを<はみ出しもの>が着ることによって、<はみ出しもの>が息子になるという解釈もあるようだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/A_Good_Man_Is_Hard_to_Find_(short_story)

また、オコナーの作品では教養を持った人物(「田舎の善人」のジョイは哲学科の大学院を卒業し、「床屋」のレイバーは現役の大学教授)が死なないまでもひどい目にあうことが多い。これは知識を備えたゆえの「傲慢」の罪に対する罰である、という見方はおもしろかった。

一方で某S氏のようにオコナーの小説にはこれから変わろうとする意欲がないという見方もあり、これは至極まっとうな意見だと思う。「強制追放者」では大きな牧場を管理する夫人のところにポーランドからの移民がやってきて、それまでだらけてきた労働者たちの仕事を機械化して効率性を追い求めたが、とあるタブーを破ったために農場主から解雇を言い渡されるというものだが、ここでも最終的に物事や効率が改善されることはない。

それもこれもオコナーがカトリックの精神に基づいているため、自らの意志とはちがうレベルでの記述をなしえていると考えると自然なこと、という一つの結論はあったと思う。もちろん現代の日本人でカトリックの教義に通じている人はそう多くないだろう。そのため、オコナーと同じ視点(神)からこの物語を読み解くことは難しい。それぞれの事象が持つ象徴性についてすべてを解き明かすことは、学術的見地からは大いに大切なことだし、キリスト教が生活の礎となっているアメリカ人にはある種の訓話として必要なことかもしれない。ただ、わたしたち個人の読者がそれに縛られるべきではなく、あくまで読み方の提示という形でとらえるべきだとも思いました。

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)