uporeke's diary

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水墨画の輝き ―雪舟・等伯から鉄斎まで―

朝から霧雨が眼鏡をぬらす中、出光美術館に出撃。

開始15分前に乗り込んだおかげでかなり快適に見ることができた。特にみんな序盤の解説や雪舟に固まっているあたりで一気に追い越し、まず能阿弥や相阿弥の作品前に陣取る。無知なわたしは「阿弥」という名前なら能の人くらいのイメージしかなかったが、書画の人なのだった。相阿弥は孫。相阿弥の描く布袋様がものすごく意地悪そうな目つきで腹をなでていて、これから妾を手込めにしそうな好色爺にしか見えない。このあたりの水墨画は比較的写実的で繊細な描写が多い。

次はいよいよ目玉の「初期狩野派長谷川等伯」。等伯の虎もやっぱり猫ぽくて頭のてっぺんを後ろ足で掻こうとしていたり、後ろ足をつっぱって伸びをしている。この後、江戸時代以降に見られる幽霊画などでこの虎と同じような目の描き方をされている(瞳孔が点となりぎょろりと目をむいている)が、何か手本があるのだろうか。同じ等伯の竹鶴図屏風。くっきりと描かれた左手の竹から、右隻の首を羽毛に埋めて眠っているかのような鶴の静けさと、等伯ならではの薄く消え入りそうな野辺の草へ、視点が左から右へ自然と移っていく。消え入りそうな薄い墨で地面から立ち上る水蒸気とおぼろげに霞む森の奥。昨年の夏に上野で見た「松林図屏風」を思い出してしまいます。

江戸に入ると俵屋宗達尾形光琳がやはり群を抜いている。俵屋宗達の虎竜はへたくそなドラえもんかと思わせるほどだらしない顔。光琳の蹴鞠をする布袋は、楽しげに鞠を見上げる小さな円と、手前に置かれた大きな袋による大きな円の対比もあり貫禄を感じる。
今回新たに感銘を受けたのが田能村竹田の菊。菊の花弁が線ではなくほぼ点になりそうなくらい薄くひかれていて、現実の菊よりも遙かにはかなく、それでいて濃い黄色を感じさせるもので忘れられない一枚となりました。

濃淡の違いや、時にデフォルメされ時に繊細に描かれた墨は、記憶から様々な色や空気の肌触りを呼び起こす。特に今回自分として大きな発見だったのが、山水画を下から見るということ。身長170cmの視点で中央に目を合わせてから上下に動かしていくのではなく、しゃがんで絵の下部から徐々に視点を上に移していく。すると、ただ縦に細長い景色と見えたものが、空に向かって雄大にそびえる圧迫感を持つ。だから下の方に山を登っていく人が描かれていて、見るわたしはそこに移入して山登りの同行者となって見るべきなのだ、と思ったのです。つまり今のわたしたちがゲームやジオラマなどで仮想の空間に自分を置きつつ俯瞰した視点も得て遊ぶ、それと同じように山水画には仮託した楽しみ方ができそう。そう考えると年を取って足腰がおぼつかなくなる前に見ておかなければならない絵がたくさんあるのだと興奮させられた展覧会でした。